連載|旅フォトエッセイ『PULA!〜アフリカの魔法のオアシスへ〜』第25話<最終回>
*ゾウに怒られ、シマウマのお尻に笑われたサファリ最終日。自然番組が同時に何本も撮れる程、オカバンゴの動物たちは盛大にそれぞれのドラマを繰り広げていた。旅のフィナーレは、夢のように美しく崇高なシーンで締めくくられ、幕が下ろされた。
子供の頃から憧れていたアフリカへ、フォトラベラーYoriがカメラを担いでついに足を踏み入れた。
日本を代表する人気自然写真家で、2022年には世界最高峰と言われるロンドン・自然史博物館主催のコンテストで日本人初の最優秀賞を受賞するという快挙を成し遂げた高砂淳二さんと一緒に、サファリを旅する大冒険。
南アフリカから、ボツワナの世界遺産・アフリカの魔法のオアシス・オカバンゴ デルタへ、アドレナリン分泌過剰な日々の珍道中を旅フォトエッセイにして連載しています。
未発表写真もたっぷり掲載!
【第1話はこちら】
”PULA”の奥深〜い驚きの意味は第7話でご紹介しています。
Contents
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Episode 25 最終回 <世界遺産へ Let’s オカバン Go!>
お尻に笑われる
いやぁ、ゾウに怒られてしまったよ。
御一行様というよりはむしろ大名行列だと言い切れるほどの貫禄を見せつける60頭以上の巨大なゾウの群れに遭遇した。
のっしのっしと移動しながら、それぞれが水浴びをしたり草を食んだり、転がるようにはしゃいで走る子ゾウたちがいたりで、たいへん気ままで大らかな大名行列だ。
我々も好奇心旺盛な江戸の民になった気分で併走していたのだが、どうも知らないうちに彼らの気に食わない位置に侵入してしまったらしい。
一頭の立派なゾウが耳を大きく広げ、鼻を高々と上げ、直立不動仁王立ちでこちらを睨んできた。
「これ以上近くには来なさんなよ」と分厚い壁となって我々を威嚇する。
鼻を上げたまま微動だにしない姿は全身からチカヅクナビームを放っており、とてつもなく威圧的だ。
カテンボいわく、ゾウは意外と速く走れて時速40kmは出るそうだから、でこぼこのオフロードをもたつきながら走るサファリカーなんてすぐに追いつかれてしまうだろう。
体重だってゾウは6トン、今乗っている車は3.8トン、追いつかれたら頭突き一つで簡単にひっくり返されてしまいそうだ。
ライオンですら怖がって襲えないのだから、百獣の王に昇格してもよいくらいゾウはめちゃくちゃ強いのだ。
「ごめんなさーい」
鼻上げ仁王立ちポーズは無駄な戦いを避けるために「シン百獣の王」から送られたありがたいサインだ。
敬意を払い、すぐに進路を変え退散した。
その前方には、我々を先導するかのようにシマウマたちが横に広がりプリプリしたお尻を見せて歩いている。
真後ろからのシマウマのお尻の柄って、なんというか、尾っぽを鼻として両側に三日月型の目と眉毛とほうれい線が描かれている人の顔に見えてならない。
草むらの中でたくさんのニヤニヤ顔が揺れている。
動くたびにその表情はハハハ、フフフと微妙に変化し、「お前ら、ゾウに怒られてやんの、イヒヒ」とからかってくる。
この表情、どこかの民族のお面に似ているのだけど、どこだったかなぁ。
プリップリッ、ハハハ、フフフ、イヒヒ。
自然番組10話分一挙ナマ放送中!
サファリカーを何台も集めている大木を見つけたので我々も近寄ってみると、樹上に1頭のヒョウがいた。
耳の傷跡や顔つきなどからあのパンテール嬢に間違いない。
獲物が木の中に見当たらないので、彼女はまだ狩りに成功しておらず満足に食べていないのだろうとカテンボが言った。
しばらくすると1台、また1台とサファリカーが去っていき、パンテール嬢を撮影しやすい場所に移動できた。
夕方こそ、多くの動物達が活発になる時間帯なので今からが見どころ満載だろうに、ロッジ宿泊者は18時ころまでに戻らないといけないらしく早々と引き揚げていった。
その点、キャンプはオペレーターが融通を利かせてくれるのでありがたい。
視線を背後に移すとオアシスに斜光のベールが降りていて、その中をいくつもの違う形の翼が飛び交い、水面は淡い金色に輝き出していた。
ベールの奥の岸辺には、列を成したゾウのシルエットが蜃気楼のようにぼんやりと浮かんでおり、夢のような景色にため息が出てくる。
突然カテンボが「リカオンのハンティングだ!」と叫び、間髪入れず車を発車させた。
一般的に日本人はゾウやキリンのほのぼの風景を好む人が多いが、西洋人にはリカオンが大人気で、特に彼らの貴重なハンティングシーンは最優先課題の一つなのだとか。
祖先たちが生き延びるために受け継いできた遺伝子は、農耕民族と狩猟民族とでは物事の捉え方や感じ方も大きく違うようだ。
西洋人観光客を相手にすることの多いカテンボは、リカオンのハンティングとなると自動的にスイッチが入り、何をおいてもその場所へ突進する。
光の中の蜃気楼は吹き飛んだ。
電光石火のごとく走るインパラとリカオンの姿が視界を横切った。
草の間に見え隠れしながら疾走するリカオンの数がどんどん増えている。
我々が追いついた時にはもうすでに獲物は倒され、リカオン軍団は一塊りになって食らいついていた。
体が細身で大型犬ほどのサイズの彼らは、ヒョウがするように大きな獲物を巣穴まで運ぶことができないため、その場で食い尽くすという。
しかし食べ終わる前に1頭が去っていった。
追うようにまた1頭が去る。急ぎ舞い戻り、獲物を食べ、また去る、それを繰り返していた。
この行動は巣穴にいる子どもや動けない仲間たちに獲物を運んでいる姿らしいが、走り去るリカオンを見ても獲物をくわえてはおらず運んでいる様子が無い。
実は彼ら、鳥類のようにいったん獲物を飲み込んで運び、巣穴で吐き出して子どもや仲間たちに分け与えているのだそう。
助け合い精神が育んだ能力なのかもしれない。
一頭のリカオンが中身の詰まった大きな白いレジ袋のようなものを咥えて出てきた。
インパラの胃袋だった。
中身は食べず袋だけを食べていた。
風向きが我々の方へと変わり、食われる獲物の強烈な臭いが鼻腔に突き刺さった。
腐臭のように角が取れた重たい臭いとは全く違い、激しく尖った鋭い臭いだ。
思わず鼻を覆ってしまった。
気を取り直しサバンナ全体を見渡すと、とんでもないことになっているではないか。
リカオンが獲物をむさぼり食い、
ハゲワシが樹上で出番待ちをし、
インパラが水しぶきを上げながら全速で走り、
発情したオスのゾウがメスを追いかけ、
シマウマの群れが笑うお尻を揺らし、
キリンが優雅に歩を進めている。
ワニが獲物を捕えたらしく、水の暴れる音が聞こえてきた。
これら全てが同時進行で我々の視界の中で繰り広げられていたのだ。
これぞPULAの恵み溢れる「オカバンゴ・デルタ」の生命力。
テレビの自然番組10話分を一挙ナマ放送中な状況だ。
どのシーンも見逃したくなくて視線があちこちに振り回されて定まらない。
一部を切り取り主役を強調して編集された映像しか知らない自分は、さまざまな動物たちのドラマが同時進行している事実を、頭ではわかっていても実感することがなかった。
躍動する命が溢れたオカバンゴの日常はあまりにも衝撃的で、呼吸する空気はむせるくらい濃厚だ。
程なくしてパンテール嬢が木から降りてきた。
カテンボは、ひもじさが続いている彼女はリカオンの食べ残しを期待していると言うのだが、リカオンが去ると、なるほど彼の予想どおり嬢はインパラが倒されたスポットへと向かい物色し始めた。
しかし、動く気配の無い樹上のハゲワシが答えであるように、獲物は跡形もなく食い尽くされ何も残っていなかったようだ。
ユートピアのクイーン
残り物にもありつけなかったパンテール嬢は、長い尻尾を一振りして草むらを歩き出した。
彼女がまとう不思議な引力にひかれ、我々は静かに後をついていく。
頭上からかんかんと大地を照りつけていた太陽は地平線近くでようやく穏やかな顔に戻り、夕空は夜を迎える準備を始めていた。
パンテール嬢はお気に入りの倒木に登り、眼下に広がる大地を見下ろす。
その姿のなんと神々しいことよ。
ユートピアに君臨するクイーンを崇めるような気持ちで彼女を仰ぎ見ていたら、あまりにも美しく広がる崇高な情景に心の目が開き、大自然に対する畏敬の念と涙が溢れてきた。
世界中の先住民たちが「自然界の全てに霊的存在が宿っている」というアニミズムを抱いたのは、この圧倒的に偉大な自然を前に人間は小さきものと認識し、恩恵に感謝し、脅威をも受け入れ、その一部となって生きていたからではないだろうか。
ふと太古の昔へタイムスリップし、先住民たちと肩を並べて座りながら沈みゆく太陽を見ているような錯覚を覚えた。
そこには、文明は進んだが人間は我が物顔で振る舞い、自然をないがしろにしている現代の地球について苦しげに伝えている自分がいた。
カメラを下ろしたシショーが
「ヒョウとここにいるみんなの人生のラインが、ちょうどこの場所で重なって出会えた奇跡のような瞬間だね」
とつぶやいた。
それぞれが別の世界で歩んできたラインの交差が作った点。
それを偶然とは思いたくない。
天が意図して与えてくれた尊い点だと思いたい。
日々の暮らしや日常的な出来事は当たり前のように意識もされず過ぎてゆくけれど、それさえも実は多様な要素が交差して生じたのだと思うと、
一つひとつの点ともっと丁寧に向き合いたくなってくる。
フィナーレの一幕は、ユートピアのクイーンが引き合わせてくれた奇跡の交差で締めくくられた。
空がまだ温かみを残す色彩に夜の帳を降ろし始めた。
力強いうねりを残した倒木の上にたたずみ、天を仰ぎ、パンテール嬢は生きながらえた今日という日を噛み締める。
そして明日に向かってゆくかのように、静かに木から降り、夜が敷かれた草むらの中へと消えていった。
我々の旅にも、ゆっくりと緞帳が降りてきた。
<完>
おわりに
魔法のオアシスからシドニーの自宅に戻り、日常生活が再開した。
困ったことに、脳がアフリカの情景を期待し続けているのだ。
街中でふと視線を遠くに向ければサバンナを歩くゾウの御一行様を期待し、でもそこには有るのはコンクリートの建物ばかり。
大きな街路樹があれば横枝に四肢を投げだし休むヒョウを期待し、でも通り過ぎる車のクラクションの音で我に返る。
毎回ちょっとだけ寂しい気持ちになり、それが少しずつ積み重なったらアフリカロス状態に陥ってしまった。
でも、あの言い伝えを信じてアフリカの水をたくさん飲んだし、掴まえてもらえるようアフリカの手と何度も握手をしたから、きっと私はまた野生動物が主役の大地に戻れるはずなのだ。
地球の見せる多彩な表情を未踏の国におもむき追いかけるのが常なのに、「またあそこに戻りたい」と思わせるほどアフリカでの体験は強烈で、余韻が抜けていかないのだった。
見るもの全てが全身の五感を騒がせてくるし、思考や感情に多くを語りかけてきた。
動物たちの命を剥き出しにした生き様は、ハッとするような学びをいくつも与えてくれた。
彼らが人間ではないからこそ、変なバイアスをかけることなく素直に気付けたし受け入れられたように思う。
地球と共存している動物たちのリアルを見ていると、私利私欲や便利で快適な生活のために自然を壊し続ける私を含めた人間という生き物が悲しくなってくる。
汚点だけに焦点を当てれば絶望的にもなってくる。
それでもここは我々が住む星だ。
PULAの恵み溢れる魔法のオアシス「オカバンゴ・デルタ」が支える生命のドラマを目の当たりにしたら、水の惑星・地球にもっともっと寄り添いたくなった。
小さなことからでも地球の営みを邪魔しない生き方を選択をする人が、一人、また一人と増えていけば、この星の抱える重みが軽くなっていくはずだ。
地球を想う心が温まり、環境の問題を考えるきっかけになればと願いながらこのエッセイを書き進めた。
書き進める中、意外すぎて驚いたことがあった。
アフリカへの憧れの始まりが幼少期ということもあり遠い過去を振り返ることも多かったのだが、あのころに感じたことがちゃんと心の奥に残されていたのだ。
大抵のことはすぐに忘れてしまう残念な自分だが、大好きな動物にまつわる出来事や興味のある分野のことははっきりとビジュアルで記憶されていて、一つ思い出すとそこからどんどん引き出され、それはある意味感動的でもあった。
下方向への振り幅大きめアップダウン人生を歩みながら様々な経験を重ねてきたけれど、結局のところ、心の芯の部分では、好きなことや関心を抱くことはあのころと全く変わっていなかった。
「三つ子の魂百まで」とはなるほど言い得て妙で、その人が生まれた時に持ってきた天性、資質や興味というものは根強く持ち続けるのだと大いに気付かされた。
人は生きながら世の中を渡るためのワザをたくさん身に付けていく。
その時それは必要な物なのだけど、増えすぎると苦しくなったり、心がザラついたり弱くなったり、本来の自分とかけ離れた状態になってしまう。
もし道に迷ってしまったら、ちょっと立ち止まり、幼いころ理由なんて無いのにただただ大好きだった事、逆に苦手だったことを思い出してみれば、そこにヒントがあるのではないだろうか。
それが本来の自分としっくり調和する方向に導いてくれるように思えるのだ。
一人旅の醍醐味にも触れたが、あれも心の芯を覗くにはなかなか有効だった。
機会を作って、子供のころ好きだった場所、思い出や憧れの地へ一人で出かけ自分と向き合ってくるのも、ブレを整える良い方法になると思う。
アフリカロス真っ最中に、再びアフリカ撮影冒険旅行の話が浮上した。
次回はスーパームーンの日に合わせて世界三大瀑布の一つヴィクトリアの滝へ行き、月光が作り出す虹・ナイトレインボーの撮影に挑戦。
その後、キャンプをしながら魔法のオアシスでサファリ。
私はしっかりとあの「アフリカの手」に掴まえてもらえたようだ。
ボリビアのウユニ塩湖で頭上と足元の二つの天の川の間で学んだことについても触れたが、その時感じた「見ることを許された、撮ることを許された」という謙虚な気持ちを忘れずに、「いい写真撮ってやるぞー!」などと鼻息を荒くせず、大自然に敬意を払いながらアフリカを撮影しようと、今からワクワクしている。
星が瞬く冬の空が美しいシドニーにて
フォトラベラーYori
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